高山寺について

概略

明恵上人坐像
Myoeshonin

重文 鎌倉時代 木造彩色 玉眼 像高83.0cm 開 山堂安置

開山堂に安置される等身の明恵上人像である。黒衣に袈裟を掛け、念珠を持つ。その表情には厳しさと温かさとが並存し、上人の相貌をよく伝える。嘉禎2年(1236)、明恵の遺徳を敬い、上人が示寂した禅堂院の東南に十三重塔が建立される。塔内には上人年来の本尊であった弥勒菩薩像をおさめ、禅堂院と塔を結ぶ渡廊に上人の木像が安置された。それが本像であろう。

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表参道
Omotesando

高山寺は京都市右京区栂尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。
神護寺のある高雄から白雲橋を越え、周山街道を道なりに進むと表参道に入る。石段上の左手に「栂尾山 高山寺」の石碑(富岡鉄斎筆)がある。やがて道は平坦になり、かつて大門があったと伝える場所に今は石灯籠が立つ。木漏れ日のもと正方形の石敷きが17枚連なる意匠が美しい。

裏参道
Urasando

塀低くもみじ遅しや高山寺 高浜虚子

裏手の駐車場・バス停から境内に入る道が裏参道である。近年はこちらを利用する人が多い。苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていく。一木一草をそのままに、手を入れすぎない自然が美しい。段を登り切ると、石積みの上に低い白壁が続く。壁の向こうが石水院である。境内は昭和41年(1966)「史跡」、平成6年(1994)「世界文化遺産」に登録された。

石水院
Sekisuiin

国宝 鎌倉時代

桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通り庇。一重入母屋造(いりもやづくり)、妻入、向拝(ごはい)付、葺。五所堂とも呼ばれる。創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。寛永14年(1637)の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。明治22年(1889)に現在地へ移築され、住宅様式に改変された。名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵(みょうえ)上人時代の唯一の遺構である。

石水院 廂の間
Sekisuiin Hisashinoma

石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかる。鉄斎は明治期の住職土宜法龍と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだ。落板敷の中央に、今は小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。華厳経(けごんきょう)にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、深い軒が生む翳りの先に光があふれる。

石水院南縁
Sekisuiin Nanen

石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。縁から一歩下がって畳の上に腰をおろすと、風景が柱と蔀戸(しとみど)、広縁によって額縁のように切り取られる。南面の欄間には伝後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」がかかり、寺号の由来を語る。西面には長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額も見ることができる。

「日出先照高山之寺」額
Hiidetemazuterasukozannotera

鎌倉時代 縦105.8cm 横58.8cm 厚2.0cm

高山寺は古く「神護寺別院」「神護寺十无盡院」などと呼ばれ、栂尾の地にあった神護寺の別院であった。建永元年(1206)11月、後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りである。その際に下賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれる。背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、長房が院と明恵との仲立ちをつとめたらしい。「日出先照高山」という表現は華厳経の比喩に由来し、字句は華厳経の注釈書(明恵が重視した『華厳経探玄記』など)に見える。

開山堂
Kaisando

江戸時代

明恵(1173~1232)が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に立つ。明恵上人坐像が安置され、御影堂信仰の対象となった。建物は室町時代に兵火をうけて焼亡し、江戸時代に再建されたものである。現在、法要はこの開山堂で営まれることが多い。1月8日に明恵上人生誕会、1月19日に明恵上人命日忌法要、11月8日に献茶式が行われる。

金堂
Kondo

桃山時代~江戸時代

かつての本堂の位置に立つ。桁行3間、梁間3間の一重入母屋造、銅板葺。承久元年(1219)に完成した本堂は、東西に阿弥陀堂、羅漢(らかん)堂、経蔵、塔、鐘楼、鎮守を従えた檜皮葺(ひわだぶき)5間4面の堂宇で、運慶作の丈六盧舍那仏(るしゃなぶつ)などが置かれたという。その本堂は室町時代に焼失し、現在の金堂は江戸時代寛永年間(1624〜44)に御室仁和寺真光院から古御堂を移築したものである。釈如来像を本尊とする。

金堂への石段
Kondo Ishidan

高山寺では、清滝川から楞伽山(りょうがせん)へいたる斜面に堂宇が造営されている。金堂は境内の最も奥まった場所にある。その左右にひろがる平坦地にかつては堂宇が建ち並び、創建時の高山寺の中心をなした。表参道から金堂へは、亭々たる杉木立の中、やや勾配の急な石段を踏んであがる。

明恵上人御廟
Myoeshonin Gobyo

宝篋印塔
Hokyointo
如法経塔
Nyohokyoto
重文 鎌倉時代
石造 高320.0cm
重文 鎌倉時代
石造 高140.0cm

開山堂上の御廟は明恵上人の墓所である。覆屋の中に古い五輪塔を収める。廟の手前左手の一段高くなった所に古色を留めた塔が立つ。左端が宝篋印塔。高山寺型と呼ばれる古式の塔で、上人に帰依した富小路盛兼の寄進と伝える。その右が如法経塔である。廟近くには歴代住持たる土宜法龍、土宜覚了、小川義章、葉上照澄の墓もある。墓域の入口に明恵の遺訓を記した小川義章筆の石碑「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」が立つ。

茶室「遺香庵」
Ikoan

庭園:京都市指定名勝 昭和時代(昭和6年)

明恵上人700年遠忌に際し、当時の住職土宜覚了は境内の整備に力を尽した。その一環として、昭和6年(1931)に建立されたのが茶室遺香庵である。茶祖明恵上人の茶恩に酬い、その遺香を後世に伝えることを主旨として、高橋箒庵(そうあん)ら全国の茶道家100人の篤志によって完成した。数寄屋大工は3代目木村清兵衛、作庭は小川治兵衛である。庭の最上部に位置する腰掛には香取秀真(ほずま)銘の梵鐘が掛かる。遺香庵庭園は平成7年(1995)に京都市指定名勝とされた。平時は非公開である。

仏足石
Bussokuseki

江戸時代

御廟を右手に見て、左の細道に入ると簡素な覆いの下に仏足石がある。釈の足跡をかたどり礼拝の対象としたもので、千輻輪宝(せんぷくりんぽう)、金剛杵(こんごうしょ)、双魚紋(そうぎょもん)などの紋様をもつ。近世の模刻ながら、釈尊に愛慕の情をよせた明恵を偲ぶことができる。そこから木の根道をあがると金堂に至る。境内には「仏足石参道」の石碑が2基あり、信仰を集めたことが知られる。

収蔵庫(法鼓台文庫)
Shuzoko

昭和時代(昭和34年)

開山堂下にコンクリート3階建ての経蔵がある。博物館寄託の仏像・絵画等の美術品を除く、聖教(しょうぎょう)・典籍・古文書類のほぼ全てを収める。昭和43年(1968)に高山寺典籍文書綜合調査団が発足し、全点の調査が行われた。その成果が『高山寺典籍文書目録』(索引共全5冊)である。それをうけ、昭和56年(1981)には、先に指定された1000余点に加え、全体が一括で重要文化財の指定を受けた。目録に載る典籍は総数12000点。重書、重文第1部、第2部、第3部、第4部にわけて収蔵されている。平安後期、鎌倉時代の典籍を多く含み、明恵の教学活動を反映している。

茶園
Chaen

高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われる。

明恵上人 明恵上人 鳥獣人物戯画 鳥獣人物戯画 日本最古の茶園 日本最古の茶園

拝観料・拝観時間

拝観時間

8:30~17:00

石水院 拝観料

800円
※紅葉時期のみ 入山料500円

駐車場

50台
※11月のみ有料

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