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明恵上人

草創から現在に至るまで、高山寺は明恵(みょうえ)上人の寺である。寺宝の多くが明恵に関わる。以下では、明恵について概観した上で、高山寺の宝物を、明恵に関わるもの、関わらないものに分けて概説し、最後に高山寺の典籍の伝来について述べる。

京都大学大学院准教授 大槻 信

明恵は承安三年(一一七三)に生まれ、寛喜四年(一二三二)に没した。八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家する。

東大寺で華厳を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けた。建永元年(一二〇六)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。

明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。

若き日には、求道の思いから右耳を切り落とし、釈尊への恋慕から二度にわたってインド行きを企んだ。残された和歌も自在な境地を伝える。

あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月

(明恵上人歌集)

没後は、空達房定真(じょうしん)、義林房喜海(きかい)、義淵房霊典、順性房高信ら高弟がその衣鉢を継いだ。伝記に『明恵上人行状』『明恵上人伝記』などがある。

明恵の教学は華厳を基礎とするが、華厳と真言密教を融合した厳密(ごんみつ)と呼ばれる独自の宗教観を打ち立てた。実践的な修行を重んじ、中でも仏光観と光明真言とが重視される。

明恵の宗教思想を理解するため、入寂時を見てみよう。場所は禅堂院、その持仏堂には五秘密曼荼羅(ごひみつまんだら)、華厳善財善知識図(けごんぜんざいぜんちしきず)、華厳海会諸聖衆図(けごんかいえしょしょうじゅうず)が飾られていた。

臨終のしつらえとして明恵は弥勒菩薩像を置き、五聖(ごしょう)曼荼羅図をかけ、光明真言、文殊五字真言を唱える。

華厳善財善知識図、華厳海会諸聖衆図、五聖曼荼羅図は華厳・仏光観に関わり、五秘密曼荼羅、光明真言、五字真言は密教に関わる。臨終の場はまさに厳密を具現化したものであった。

明恵はまた、釈迦、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)をはじめ、文殊、弥勒、春日明神などに深い信仰を寄せている。高山寺の宝物が多岐にわたることは、明恵の信仰の多様性に起因するといえよう。

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